もくじ
清朝の滅亡と中華民国の誕生
さて、やがて清朝の終わりに中国で革命が起こり、中国の多くの省が独立して、彼らは南京に「中華民国」臨時政府を樹立しました(一九一一年)。これはアジア初の共和制国家であり、その臨時大総統に、革命家の孫文(そんぶん)が就任します。
孫文。「中華民国」
臨時政府を樹立したが……
孫文は、日本と連携して、近代的な独立国家の中国をつくろうとした人でした。もしこの新政府が順調に成長したならば、今日のような共産主義の中国は生まれなかったでしょう。
しかし、当時の中国は非常に未熟な社会であり、誕生したこの新政府も、日本の明治維新のようにはスムーズにいきませんでした。というのは、新政府の人間の多くは信念よりも利害で動く人々であり、利害次第ですぐ寝返る人々だったのです。
また新政府といっても名ばかりで、充分な資金も国をまとめる力もなく、まったく無力でした。清朝の皇帝もまだ皇帝の座にあり、内乱が収束したわけではありません。そうした中、孫文のところに近づいてきた人物がいました。
清朝の軍人、袁世凱(えんせいがい)です。彼は結局、陰謀により、この新政府を乗っ取ってしまいます。
袁世凱(えんせいがい)。陰謀により、
新政府を乗っ取ってしまう。
中国の歴史は、李登輝・台湾元総統の言葉を借りれば、常に「だます者と、だまされる者」の歴史です。中国に『六韜』(ろくとう)と呼ばれる歴史書がありますが、これは一言でいえば、「いかにして人をだますか」ということが書いてある書物です。
中国の歴史を語るうえで、裏切りと、陰謀を抜きに語ることは不可能なのです。袁世凱は、その裏切りの達人だったといってよいでしょう。もともと彼は、数々の陰謀と裏切りによって、清国軍の最高司令官の座にのぼりつめた人でした。
袁世凱は、崩壊寸前の清朝から、孫文を討つために遣わされて来たのです。ところが、袁世凱はこともなげに清朝を裏切り、今度は新政府の乗っ取りを謀ります。彼は言葉巧みに孫文に近寄り、幾つかの交換条件とともに、
「私が清の皇帝を退位させるから、私を中華民国の大総統にしてくれ」
と孫文に持ちかけます。新政府の弱体さに悩んでいた孫文は、やむなく袁世凱に大総統の地位をゆずってしまいます。
このとき、大きな失望を味わったのが、それまで孫文を支援してきた日本人志士たちでした。
そもそも日本人志士たちが孫文を支援してきたのは、列強の侵略になすすべを持たない腐敗堕落した清国政府を倒し、新政権を打ち立て、日本と共にアジアの富強をはかろうという、孫文の主張に共鳴したからでした。一方で、彼らの目には、袁世凱はとてもそのような理念を解せる人物には映りませんでした。
日本人志士のひとり、内田良平は、孫文がいとも簡単に政権を袁世凱に譲り渡したことを知って、激怒して言いました。
「敵と内通するとは、支那古来の易姓革命と変わらない。アジアの解放という崇高な人道的使命を分担させられるかのような期待を、孫文に抱き続けたことは誤りだった」
かつて日本の明治維新の推進者たちは、私利私欲では決して動かず、大局を観て、国家の未来だけを思う人々でした。しかし中国では、残念なことに、利害次第でどうにでも動く人々が大勢を占めていたのです。
あの関東軍の石原莞爾も、孫文の中華民国政府が誕生したとき、心から喜んだ一人でした。
けれども、孫文の袁世凱への政権委譲を聞いて落胆し、
「漢民族に近代国家を建設するのは不可能だ」
と言いました。大局を観ずに、場当たり的な行動をする孫文に深く失望したのです。このとき、中国での維新を目指し、「中国人による中国人のための近代的中国」をつくろうとしてきた日本の試みは、実質的に挫折したと言ってよいでしょう。
案の定、袁世凱はその後まもなく、孫文らを裏切ります。すべては国家を私物化するための袁世凱の策略だったのです。袁世凱は、孫文らがつくった民主的な新法も廃止し、彼らを追い出し、宋教仁をも暗殺して、独裁政治を始めました。
こうして、単に独裁者が入れ替わっただけの革命となり、中国近代化の道は遠のいたのです。孫文らは抵抗しますが、もはやあとの祭りで、彼らは敗北し、またもや中国は混乱の泥沼に入り込んでいきました。