もくじ
清国から日本に続々やって来た留学生たち
それで日本は、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて、清国(中国)からの留学生を毎年喜んで受け入れました。日本は清国から学びに来る彼らに、知識を与え、独立心を育てていきました。
その中国人留学生の数は、ピーク時の一九〇六年には、二、三万人にものぼったといいます。
中国人留学生が日本の港に到着して、まず驚いたことは、小さな学童たちがみな学校へ通う姿でした。それは当時の中国では、考えられない光景だったからです。中国では、学校というのはごく一部の人々のためでした。大多数の人は文盲であり、字が読めなかったのです。
しかし、向学心に燃えた中国人たちが、競って日本に学んでやって来るようになりました。のちに中国に、親日また反共(反共産主義)の南京国民政府を樹立した汪兆銘も、法政大学で学んだ人物です。日本は彼らを喜んで受け入れ、中国の未来のために官民をあげて支援していったのです。
当時、日本人の口によくのぼった言葉に、「中国の覚醒」というのがあります。中国人自身が目覚め、彼らが自分たちで近代化された中国をつくってくれることを、日本人は心から願いました。
日本はいずれ中国と共に、東亜世界における共同防衛体制を構築したいと考えていたのです。西欧列強にもソ連にも侵されることのない共同防衛体制です。それが日本の安全保障だからというだけでなく、中国と東アジア全体の繁栄のために不可欠と考えたからでした。
日本が中国に求めたのは、あくまでも日中の共存共栄だったのです。
この「中国人による中国人のための近代的な中国」を造るという日本の望みと支援は、ある程度まで実を結んでいきます。
日本に留学した中国人らは、その後の中国近代化のために知識や技術、文化をもたらしていきました。それが中国社会に与えた文明開化の衝撃は、かつて日本が遣隋使や遣唐使を通して文明開化を経験したときに匹敵するものだったのです。
清朝末期の中国では、学問といえば「四書五経」くらいしかありませんでした。そこに日本留学経験者たちを通して、はじめて近代的な自然科学が紹介されました。また産業、司法制度、文学、近代音楽、自由民権思想、義務教育、近代的警察組織、その他近代国家の要素が紹介されていきました。
その影響の大きさは、たとえば今日も中国語に残っている「日本語から来た外来語」の多さにもみることができます。現代中国語にある外来語のうち約三六%は、もと日本語のものなのです。
今も中国語として使われている次の言葉は、どれも「中国語となった日本語」です。「人民」「共和国」「社会」「主義」「改革」「開放」「革命」「進歩」「民主」「思想」「理論」「広場」「石油」「現金」「国際」「学校」「学生」「保健」「出版」「電波」「警察」「栄養」「建築」「工業」「体操」「展覧会」「農作物」「図書館」「生産手段」「新聞記者」……。
近代中国の基礎は、日本の影響のもとに造られたといって決して過言ではありません。
日本留学ブーム、日本政府による中国近代改革の援助、日本人による革命支援などにより、清朝末期における日中両国は、蜜月ともいえる良い関係となっていました。当時の中国人にただよっていたムードは、「反日」ではなく、むしろ「慕日」であったのです。