日中戦争はなぜ起こったか。
が放った銃弾が日中戦争の始まりだった かつて日本は、第二次世界大戦時に、「大東亜戦争」(アメリカはこれを太平洋戦争と呼ぶ)を戦いました。東亜とは東アジアのことです。日本は東アジアを舞台に、中国、アメリカ、イギリス、その他西欧諸国の連合軍と戦いました。
しかし、なぜ日本はこの戦争をしなければならなかったのでしょうか。好きこのんで戦争をしたのでしょうか。いいえ、そうではありません。日本はやむなく、この戦争を戦わざるを得なかったのです。 大東亜戦争の発端はと言えば、中国です。日本と中国は「日中戦争」(支那事変)を交えました。
さらに日本は、アメリカとも「日米戦争」を交えます。しかし日米戦争は、中国をめぐる日米対立が原因でしたから、日米戦争は日中戦争から始まったものです。また日本が、そののちイギリスその他の西欧諸国と戦ったのも、もとはといえば中国での戦争が発端でした。
ですから、もし日中戦争がなかったら、日米戦争も、日英戦争もなかったでしょう。そして大東亜戦争自体が、なかったに違いないのです。
このように大東亜戦争の発端は、中国でした。すべてはそこが開始点です。なぜ日本は、中国で戦争に巻き込まれたのでしょうか。日本は、中国大陸をわがものにしようと出ていったのでしょうか。
そうではありません。日本はむしろ、中国の「内戦のわな」に、はまっていったのです。
史上最悪の内戦国家だった中国
「日本は中国を侵略した」ということがよく言われてきました。中国人がそう叫び、日本国内にいる反日的日本人もそう叫んできました。それが「正しい歴史認識だ」と。しかし史実をみるなら、決してそうではありません。
日本が中国に進出したのは、もともと中国の内戦に巻き込まれた、というのが実情です。しかし日本は、それでも中国に足を踏み入れた以上、中国の内戦を止め、中国を救おうと奔走しました。中国が共産主義国家になるのを防ごうとし、また欧米の侵略や搾取にあわない自立した民主的国家がそこに誕生するのを手助けしようとしたのです。
それは中国に安定と秩序をもたらすための人道的、道義的介入でした。
人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいます。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家でした。
各軍閥(ぐんばつ)は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆でした。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していました。そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、何度も起きていました。
このような状態は、お隣りに住む日本としても、決して座視できないものだったのです。
たとえて言うなら、長屋に住んでいる人がいて、そのお隣りに、たくさんの子どもをかかえた夫婦が住んでいるとしましょう。夫婦は毎日ケンカをしていて、物が飛び交い、しばしば窓ガラスを破って物が飛んできます。また、彼らは働かないために収入がなく、やがて子どもたちの中に飢え死にする者まで現われました。
こうした場合、お隣りに住む者としても、決して座視はしていられないでしょう。何とかしてあげたいと思うものです。
それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、もう一つの理由がありました。それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略です。
西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていました。アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方です。主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていました。
一八三九年に起こった「アヘン戦争」は、その西欧のやり方を端的に示すものでした。これは、イギリスが清国(中国)に対して仕掛けた卑劣な戦争です。イギリスは大量のアヘン(麻薬)を清国に売りつけようとし、それを清国が拒むと、圧倒的な軍事力をもって清国を叩いたのです。このようにして中国は、西欧の植民地主義によって蹂躙(じゅうりん)されつつありました。
一方、ソ連も、アジアに対し膨張主義をとっていました。共産主義革命を経たソ連は、さらに「世界革命」を目指し、全世界を「赤化」(共産主義化)しようと、南下政策すなわち侵略を続けていたのです。彼らは中国も手に入れようと、虎視眈々(こしたんたん)と機会をねらっていました。
このように、もしこの混乱する中国に西欧列強またはソ連の勢力がいすわってしまえば、次はお隣りの日本が危険にさらされる番なのは目にみえています。
したがって日本が望んだことは、この中国が、外国の勢力に侵されることのない近代化された強力な国家となり、やがて日本とも共に手をたずさえて、西欧の植民地主義やソ連の侵略に対抗してくれることだったのです。