三井財閥の成り立ちと三井家同族会の組織を分かりやすく説明しました

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綱町 三井倶楽部 東京都港区三田2-7-3 (地下鉄麻布駅から徒歩8分)

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緑豊かな庭園を背景に優雅な佇まいを見せる綱町三井倶楽部本館は、三井家の迎賓館として鹿鳴館の設計者として知られる「ジョサイア・コンドル博士」の設計によって建てられました。

竣工は第一次世界大戦(1914-1918年)が終わり、ベルサイユ条約(1919年)の4年後である大正12年(1923年)12月。

都心とは思えない静寂な環境、古き良き時代から受け継がれた伝統が脈々と息づく綱町三井倶楽部。それはまさに「三井グループの迎賓館」にふさわしい風格ある社交場になっております。

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明治26年(1893年)7月の商法(会社編)試行に伴い、合名会社、合資会社、株式会社の3種の会社が制度化されました。

既に明治20年(1887年)前後から株式会社設立ブームが起きていましたが、小法制定以後、株式会社は支配的な企業形態して日本産業に定着するようになりました。

財閥も商法に制約されて、会社形態を導入\しかし合名会社、合資会社の範囲を越えようとせず、ようやく明治末期になって株式会社形態ととるようになりました。

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三井家は、明治24年(1991年)末に三井物産、三越呉服店を直営事業にする事と、三池炭鉱社を中心に三井組・三井物産が所有する鉱山を集めて、三井鉱山会社を新設することを決定。

その上で、これらに銀行を加えた四事業体の統括機関として、同族・重役よりなる三井家評議会を設置しました。

そして、明治26年(1893年)7月、商法施行と時を同じくして、四者を合名会社に組織しました。 ただし。三井鉱山は、明治25年(1892年)にいったん三井鉱山合資会社を設立した上で、合名会社に改組します。

また、合名会社三井呉服店だけは9月に設立されました。

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三井家が合資会社でなく、合名会社にこだわったのは、無限責任の合名会社の方が社会的信用を得るのに都合が良いと考えられたからであります。

また、明治26年(1893年)11月には大元方寄合と仮評議会を統合して、三井家同族会としました。 同族会は、四合資会社の統括機関でもあり、会社形態こそはとりませんが、財閥本社となりました。

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さらに、同族会設立と同時に、同族共有財産の管理機関三井組が三井元方と改称。 翌年、この元方の下に地所部と工業部が新設されました。

創業時における四合名会社と、元方二部のトップマネイジメントは次の通りであります。

三井銀行  社長 三井高保   (専務理事  中上川彦次郎)
三井鉱山  社長 三井三郎助 (専務理事  団琢磨)
三井物産  社長 三井元之助 (専務理事  益田孝)
三井呉服店 社長 三井源右衛門(専務取締役 藤村喜七)
地所部    部長 三井復太郎 (理事     馬越恭平)
工業部    部長 三井武之助 (理事     朝吹英二)

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