もくじ
三井物産設立者の益田孝が育成した物産マンとはどんな人材か?

中上川彦次郎(学歴は慶應義塾、福沢諭吉の甥)が率いる三井銀行と益田孝(三井物産設立者、学歴は江戸中等教育)が率いる三井物産の対立関係は、益田が、中上川が否定する政商路線に固執したり、中上川の商工立国思想に反発した結果生じたものではありません。
益田も、首領の井上馨(日本の外務卿、鹿鳴館や帝国ホテル建設に尽力、政界を引いた後に三井組を背景に先収め会社:三井物産の前身を設立、慶應義塾出身の中上川を三井銀行にヘッドハンティングした人物)や中上川同様、「旧習の番頭ども」の政商路線は三井家にとって有害と考えていた。
当時、外国商館が独占する日本の貿易を日本人の手に取り戻す商権回復を国家的課題とみなし、三井物産はそのための先兵たるべきであると考える点では、益田と中上川は共通する国益本意の理念の持ち主でした。
益田は、中上川のラジカルな工業化政策と物産の利害を軽視した独断的な行動に反発していたのであります。
益田孝は、創立の時点から三井物産のトップ経営者であり、中上川時代も中上川死後、同族会事務局管理部専務理事として、「商業の三井」の方向に三井財閥を指導し、物産の育成に最大限のエネルギーをつぎ込みました。
益田は、幕臣の父が函館勤務中にイギリス人から英語を学び、幕府に通訳として仕えました。 幕府使節団通訳として渡欧した経験も持ちます。
維新後、横浜で内外貿易商の通訳・商談補助で生活の資を得、ウォルッシュ・ホール(アメリカ一番館)に雇われた事もありました。
この間、井上馨の知遇を得るとともに、外国語の能力を買われて大蔵省造幣権頭に抜擢されました。 当時、造幣寮には外人技師が多く、彼らの管理に必要な外国語能力を持つ人材が求められていました。
益田は、三井物産を設立すると、国際商業の知識・能力・経験が豊富な人材を時間をかけて育成する事につとめました。
彼は、過去の貿易取引の体験に即して、商社における人材の決定的重要性を知覚していました。 妻の兄が商業講習所初代校長の矢野次郎であったこともあり、同所(明治17年まで)とその後身(東京商業・高等商業学校:一橋大学の前身)の出身者を大量に採用し、実践で鍛え上げました。
講習所出身の物産幹部には、渡辺専次郎、岩下清周、間島与喜、小室三吉、福井菊次郎。 渡辺と岩下は講習所を中退、三菱商学校から物産に入社しました。 渡辺は、同族会事務局管理部の専務理事と物産専務理事を兼ねていた益田孝が、明治37年()に前者に選任することになったさい、後者を引き継ぎました。
これら講習所出身者と、中途採用者の上田安三郎、飯田儀一、岩原謙三、いわゆる丁稚上がりの山本条太郎、藤野亀之助、東京商業学校卒の藤瀬政次郎等が、物産創立後に採用され、物産マンとして育成された人材であります。
彼らは明治期の物産幹部として有名であります。
このうち、上田は、長崎の商家に養子として育ち、15歳の時、同地在留のアメリカ商人アルウィンに雇われ、アルウィンの講演でアメリカに留学、私立の商業大学に学びました。
アルウィンが先収会社、三井物産の顧問であった関係で、帰国後、創立したばかりの物産に入社。
上海支店に勤務し、明治13年(1880年)に支配人に就任、明治25年(1892年)までその職にありました。 明治26年(1893年)の三井物産の合名会社改組直後、益田と並ぶ専務理事に昇格しました。
条太郎は目覚ましいっ商才を発揮、やがて明治34年(1901年)に上海支店長に抜擢されました。 なお、吉田健三は元首相吉田茂の養父に当たり、山本丈太郎と吉田茂は一コ同士ということになります。
これに対し、三井物産は政府委託の米・石炭などの安定した御用商売を地道に続ける中で、人材を育成し、彼らの働きによって、明治中期以後、総合商社としての躍進を遂げる事ができました。
この過程における益田の指導的役割は大きかったといえます。
三井の中上川彦次郎と三菱の荘田平五郎は、しばしば対比される存在で、どちらもトップ経営者としても両財閥の工業化を指導し、どちらも福沢諭吉から親しく指導された慶応義塾出身者であります。