夷をもって夷を制すは、中国人の伝統的な思考法です

夷をもって夷を制す

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中華民国の新しい大総統になったこの袁世凱が、そのとき自らの保身のために考えたことは一体何だったでしょう。それは、
「夷(い)をもって夷を制す」
ということでした。「夷」とは外国のこと。つまり外国勢力同士を対立させ、戦わせて力をそぎ、自己の延命をはかることでした。またこれは、単に外国勢力同士だけでなく、自分以外の複数の勢力間にトラブルを起こし、彼らを戦わせて、自分だけが生き残ろうとする「生き残りの哲学」でもありました。

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「夷をもって夷を制す」は、中国人の伝統的な思考法です。これは一見、利口なやり方に見えるかもしれませんが、結局これが中国を亡国の道へと誘い込むことになります。これは中国を戦場化する元凶となったのです。
袁世凱は「夷をもって夷を制す」の考えにより、まず西欧列強と日本の間に対立を生み出します。満州にもアメリカを引き入れて、日本とアメリカの利害が対立するよう仕向けました。
また、中国民衆と日本の間にも対立を生もうと、様々なウソを流して、反日宣伝をし始めたのです。その反日宣伝は、相当な効果を生みました。

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その反日宣伝の一環に、たとえば有名な、 「二一カ条の要求」
があります。これは日本が袁世凱政府に提出したものですが、日本が中国の新政府のもとでも正常な経済活動等ができるように求めた要求、というよりは希望でした。なぜなら、交渉を通して幾度かの修正や削除が行なわれているからです。
この「二一カ条の要求」は、日本の侵略的姿勢を表すものと言われていますが、そんなことはありません。たとえば孫文は当時、この二一ヶ条について、
「日本政府の態度は東洋の平和を確保し、日中の親善を図る上で妥当なもの
だ」
と理解を示しました。

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孫文はさらに、日本の外務省に日中盟約案を送っており、それは日本政府の「二一カ条の要求」とほとんど内容が符合するものでした。このように日本政府の「要求」は、当時としては決して理不尽なものではなかったのです。
ところが袁世凱は、その内容をゆがめて内外に伝えます。日本側としては全く記憶にない「要求」まででっち上げて、「日本はこんなにひどいことを言う」と悪口を言いふらしました。それによって国外では、西欧列強と日本が対立するようになります。

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また国内では、排日運動が巻き起こりました。条約締結の日も、「国恥記念日」として民衆に反日感情があおられました。中国では民衆の不満は、政府にではなく外に向けさせることが、為政者の伝統なのです。つまり「悪いことはすべて他人のせいにする」――その戦法で、中国民衆に反日感情を生んでいきました。
袁世凱はこうして、自分以外の複数の勢力を対立させ、彼らの対立を利用して自己の保身をはかるという、「夷をもって夷を制す」の考えで行動した人でした。この考えは、のちに見るように共産党の毛沢東も使ったものであり、中国の混乱をさらに激化させ、戦場としていく原因となりました。

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