トーマス・グラバー はジャディ・マセソン商会に縁がありラッキーだった

トーマス・グラバーはとジャディ・マセソン商会

からの続き

ジャディ・マセソン商会

幸いなことに彼の大きな希望を達成してくれそうな会社が身近に存在した。

その会社名を「ジャディ・マセソン商会(以下、JM商会」と記す)という。

同社の設立は1832年というから、日本の歴では天保三年になる。

後にグラバーと深い関係のある人物としてブログにも登場する

三菱の創始者岩崎弥太郎、慶応義塾の創始者、福沢諭吉の誕生が、

天保五年(1834年)であるから、日本が開国に踏み切る二年前の幕末時代、

すでにイギリスでは株式会社、総合商社が誕生し活動していたのである。

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JM商会は二人のスコットランド出身者によって設立された。

一人はW・ジャディーンといい、もう一人はJ・マセソンといった。

二人の名前の頭文字をとって「ジャディ・マセソン商会」と名乗ったもの。

JM商会は香港に本社を置き、主として中国貿易に携わった大商社だが、

実は同社設立には、ちょっとした経緯があった。

周知のように1600~1800年代のイギリスと言えば

アメリカとの独立戦争(1776年)にこそ苦杯をなめたものの、

アジア、アフリカ等に多くの植民地を有する「大英帝国」として世界に君臨していた。

国土としては、大国に属するインドや中国もその支配下にあったのだ。

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イギリスはインドやアジア各国との貿易を有利に展開すべく、

早くも1600年、イギリスの特権的な会社「東インド会社」を設立した。

当時はイランだ、ポルトガル、フランスの列強もアジアの利権を狙っていたが、

彼らを押しのけての会社設立であった。

同社はその社名が記すように貿易の拠点としてインド各地に商館を設立、

特に1757年の「プラッシーの戦い」

(インドのベンガル太守と東インド会社の戦い。東インド会社が勝利し、貿易上の特権や賠償金を獲得)

以来、同社はインドの行政、司法など、大部分を支配した。

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阿片戦争で飛躍したJM商会

一方、十八世紀以降、イギリス本国では産業革命の進展、国内の産業資本家層が

東インド会社の貿易独占に対して強い批判、不満の眼を向け始めた。

また同社自身、軍事費の拡大やインド綿布の本国への輸出の減少などによる採算割れから、

1833年、同社の貿易活動は全面的にストップ状態になってしまった。

それから間もない1858年、長年にわたり東インドを支配しつづけていた同社は、

ついに解散に追い込まれてしまったのだ。

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同社のこの趨勢を睨み続けていたスコットランド出身のジャーディーンとマセソンが

「好機到来」とばかり設立したのがJM商会だったというわけである。

そしてJM商会の設立はまさにグッドタイミングだった。

設立から八年後の1840年、イギリス本国は中国(清朝)との間に

「アヘン戦争」を惹起、二年後の1842年、イギリスはこの戦いに勝利し

「南京条約」を締結させた。

次の投稿に続く、

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