トーマス・グラバーは「明治日本の産業革命」実は多大な貢献をしていた
日本の近代化の象徴である長崎県の高島炭坑、軍艦島(端島炭坑)、福岡県の官営八幡製鉄所など造船・炭鉱・製鉄関連の8県23施設が、ユネスコの世界文化遺産へ登録される見通しとなった。幕末から明治にかけて、これらの産業近代化事業推進者となった一人のスコットランド人がいた。
これだけは知っておきたい話題提供
日本の近代化の象徴である長崎県の高島炭坑、軍艦島(端島炭坑)、福岡県の官営八幡製鉄所など造船・炭鉱・製鉄関連の8県23施設が、ユネスコの世界文化遺産へ登録される見通しとなった。幕末から明治にかけて、これらの産業近代化事業推進者となった一人のスコットランド人がいた。
秘密組織ではなく、誰にでもその存在が分かっていれば、これまでに何万冊もの本が出回るわけがない。要するに良くも悪くも外部の者には窺い知れない秘密結社の要素が今でも強いということである。
フルベッキが語学の天才なら、英四朗もまた英語学の天才であった。 特に発音では西南雄藩の各武士も顔負けの見事な発音だったらしい。フルベッキの才能と人格は各雄藩の生徒達をすっかり魅了し、彼は明治二年(一八六九)、新政府の招きにより上京、顧問に就任した。
グラバーが来日した年と同じく、安政六年に、長崎入りし、英語、仏語、オランダ語を教える「洋学所」を開いた、そこで特に英語をマスターしたからである。フルベッキの来日意図は、その頃は、禁教であったキリスト教(新教)の布教のための長崎入りであった。 彼の語学力は天才的ともいえる者だったので、西南雄藩はもとより、 各藩の俊才たちが彼の講義を受講すべく長崎に集まった。
グラバー邸が完成するまではマッケンジーが借家していた梅ケ崎邸に居住していた。 一八六一年六月、グラバーはウィリアム・オールト、ウォルッシュ商会など、七つの商会が集まり、「長崎貿易の促進と発展」、「不法取引の禁止」、「貿易報告の発行」のために「長崎商工会議所」の設立を決定した。
徳川幕府が長年にわたる鎖国状態へ突入した折、このオランダ商館の出島だけは、我が国唯一の外国貿易の窓口として残されたことは前述した。しかし、この当時オランダはかって世界へ雄飛した面影は全く薄れ、アメリカ、イギリス、フランス、ロシアの後塵を拝するj国へと成り下がっていた。
グラバーはこれ以来、東シナ海を通らねばならないJM商会の上海店出張を極力避け、日本国内での船旅を楽しむことにした。五島列島を過ぎ、しばらく進むと、後にグラバーが大きく関わる事になる高島炭鉱の一島、端島(通称「軍艦島」)が見えてきた。もうここまで来ると終点の出島岸壁までは目値鼻の先である。
日本に初めて来たフリーメーソンは江戸時代後期に来日したオランダのイサーク・ティチング(Issac Titsingh)であります。ティチングはアムステルダムの生まれで、オランダの東インド会社に入社し、1772年にバタビア(今のジャカルタ)でフリーメーソンの会員になり、彼は1779年にかけて3度来日し、長崎のオランダ商館長を務め、その間、高官や蘭学者たちと親交を持ちました。
さて、グラバーがマッケンジーの誘いに応じ大きなユメを抱いてやってきた日本は当時どういう状況下にあったのであろうか。安政六年と言えば、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝ち「天下人(征夷大将軍)」となって初めて「幕府」を開き二百五十六年目に当たる。
トーマスはタビオ余韻に浸る間もなく、貿易商社マンとしての第一歩を踏み出した。 しかし、働く場所こそ変わったものの、仕事の内容はアバdh-んで体験した帳簿の作製、複写、船荷証券の作成など、グラバーにとっては全く魅力を感じることのない仕事であった。 「こんな仕事で一生を棒に振るなど、まっぴらごめんだ」。
十六歳でギムナジウムを卒業したトーマス・グラバーは兄達、チャールズとジェームズの勤める船舶仲買業へ就職したと言われるが、はっきりとした事は分からない。ただグラバーは伝票付けや、在庫管理等の事務の仕事には全く興味がなかった。同じ船舶仲買業でも、自らの会話と営業力で大きな船舶の売買、或いは鯨や、大量の魚の売買などに直接タッチできる仕事に大きな魅力を感じていた。